隠れ糖尿病顛末記

2006年7月18日

茨専 1期 機械 清 野 洋 一

父を71歳、母を78歳で亡くしており、決して長命の家系ではないので、この年になると、父母のことも思い、人生の最後のあり方について、ついつい考えてしまう。

 生活を楽しみながら、長生きできれば、これに越したことは無いが、人の助けを借り、あるいは迷惑をかけながら、生活の質を落としてまで、長生きしたいとは誰も望むところではないと考える。

勿論、回復の見込みがほとんど無いのに、生命維持装置の力を借りて、生きていたいなどとは、全く考えていない。

私の理想は、“ピンピンころり”である。死をそれほど怖いとは思わないが、自分が自分のことも処理できない ∙ 自分の意思表示もままならない、あるいは自分自身がどんな状態にあることすら認識できないような体調では、生きている意味さえないと考えるのは神への冒涜であろうか。

以上のようなことから、“ピンピンころり”を地で行けるように、出来るだけ健康を維持したいと言う願望はこれまでになく、強くなるに至っている。

 1985年に境界型糖尿病と判定されて以来、血糖値に悩まされており、200412月にイタリアから帰国した時は、正常値のほぼ2倍の血糖値(HbA1c)であったが、家内始め関係者のご協力により、20067月に何とか正常値まで下げることができた。

過去20年間の血糖値(血中グリコヘモグロビン濃度:HbA1c)と体重の推移を添付図に示す。

1985年、45歳の健康診断で、境界型糖尿病と診断されて以来、糖尿病との付き合いが始まった。

境界型とは、空腹時の血糖値が110以下で正常、また空腹時にブドウ糖の糖負荷を掛け場合、2時間後は正常値の140以下に降下するものの、途中は正常値を超える場合を指している。

この症状は通常の健康診断では見つからず、ブドウ糖負荷試験で初めて分かるため、
最近は隠れ糖尿病と呼ばれているようである。

私の場合は、途中の血糖値が200を超え、インスリンの分泌も多少低いが、体重が6768kgと身長に比べ、太っているため、インスリンがまともに効かないとの診断が、下りていた。

紅顔の美少年のころの筆者です。;糖尿病に罹るなど夢にも思わない純真無垢な様子が伺えます。(HP担当が追記謝々!)


しばらく
会っていない友達に会うと必ず、“太ったな、仕事をしていないのではないか”と誰からも冷やかされたことが思い出される。実際は非常に多忙で、運動はほとんどせず、夜遅く帰って、沢山食べて、必ず飲んで寝ると言う生活を続けていた。

その後、約10年は、毎年1回のブドウ糖負荷試験を義務付けられ、実施しており、毎回同じような結果であった。この時点で、医師の言うことをまともに受け取り、食事及び運動で十分な努力を行っておれば、真性の糖尿病にならずに済んだのかも知れない。

以上のような診断が下っていたにも拘わらず、真剣に取り組まなかったことが、悔やまれるが、具体的に明確な症状が無いことが、真剣さに欠ける大きな理由であったと考える。夏のゴルフの際、まだ暗くなるまで十分に時間があるので、1ラウンド終了後、もう半ラウンド回ろうとの提案に、この暑さの中、もう結構と思っても、何とか付き合える体力もあったし、身体のどこかが痛いわけでもなく境界型糖尿病を病気として実感できなかったことが災いしたと考えている。また境界型糖尿病であり、真性の糖尿病ではないとの甘えもあった。

 そうは考えたものの、今までと同じ生活を繰り返しておれば、悪くなることはあっても、良くなることはないと考え、198510月頃からジョッギングを始めた

 生まれてこの方、不得意なことも手伝って、運動とはほとんど無縁に過ごしてきた私にとっては、一大決心であった。

5時に起床し、5時半から走り出し、30分、約5kmを走り、7時には家を出て出勤する日常であった。真冬はさすがに、朝、走ることは辛く、1月から3月の冬季間は、朝は家内に車で会社に送って貰い、帰路をジョッギングで帰ってくる方法を取った。帰る時間が夜11時を過ぎても、走って帰ってきていたので、今考えると、自分ながらよくやったものだと懐かしく思われる。

 この習慣を続けるため、私なりにジョッギングを始めるに当たって採った方法は、ジョッギングを行うことを周りに宣言する ∙ いわゆるランニングギア:シューズ、シャツ、パンツなどを一流ブランド品で揃える ∙ 走行距離を記録に取るなどして、意思の弱さを補った。

当時の血糖値、血中グリコヘモグロビン濃度(HbA1c)の値の記録を見ると1994年までは、当時の判定値上限:6.8を何とか、クリアしていた。

1995からは、なぜかブドウ糖負荷試験を行っておらず、年1回の人間ドックでの血糖値検査のみとなっていた。自分では、境界型糖尿病で推移しているものと考えていたが、1996年に“あなたは糖尿病であると”宣告された。家内がスポーツクラブ“リラひたち”に入会したいので私にも入会して欲しいと依頼され、申し込んだところ、クラブの担当者から“あなたは糖尿病に罹患しているので、入会には医師の承諾書が必要である”と言われ、初めて自分が既に真性糖尿病に罹患していることを迂闊にも知った次第であった。

人間ドックの結果で1995年以降HbA1cの値が7.0を超えており、この結果をよく見れば、あるいは判定医師の話をよく聴いておれば分かったはずであるが、結果について十分認識していなかった。なにより上述の如く、特別な症状もないので、気にしていなかったことが正直なところである。このことは、折角スポーツクラブへの入会が認められたにも拘わらず、その後4年間は一度も利用することなく、会費を払うのみなので、退会していると言う事実からも、真剣さに欠けていたことは明白である。

定年退職前の1998にはHbA1c9.0に迫っている。これは1995年以降、海外出張が多く、特に1997年には6回出張した。1998年は4回と回数はそれほどでもないが、日立が基本設計した自動車部品をイタリアの会社に外注してフィアット社に納入する部品の量産を立ち上げるため、この年は海外での滞在が日本でのそれより長かった。最初の出張は、21日から6月初旬までの長期出張で、南イタリアのバーリ市に4ヶ月間滞在した。更に6月下旬からも8月まで長期出張であった。このため食事、運動とも十分に管理できなかったことが主因と考えられる。

退職前及び199912月60歳定年退職後200010月のイタリア赴任までの間は、何とかHbA1cのコントロールはできていたと考えるが、イタリアへ単身赴任後は右肩上がりで、一方的にHbA1cが上昇してしまった。ジョッギングはずっと続けており、体重も増えないように気をつけていたので、自分としては意外な結果である。

この原因を思いつくまま挙げて見ると下記のようなことが考えられる:

(1)ミラノでは“おかめ水戸納豆”が中国人経営の食材店で購入でき、朝食は大概“ごはんに味噌汁と納豆”を食べ、昼食も、出来るだけ日本食のレストランを利用したが、イタリア国内のみならず、国外への出張も多く、外食も多いことからも、日本で妻が準備する健康的な食事にはとても及ばないものであった。

(2)(アルコール飲料)を飲みすぎた。ワイン、リキュール類を大量に買い込み、夜のワイン、ビールは勿論、朝も、しゃきっとしていない時はたしなみ、夜中、なかなか寝付かれないと言っては、リキュールを引っ掛けると言うアルコール漬けの生活であった。

(3)ストレスの多い生活であった。ストレスも糖尿病の一因と言われているが、仕事面、一人暮らし、不慣れな地理、交通ルールでマニュアル車の運転など、常にストレスが有った。

(4)これが自分では最も大きな要因と考えているが、老化がある。つまり加齢により、インスリンの生産能力が減ってしまっている。

2003年からは、朝のジョッギングに加え、退勤後の夕方はできるだけ散歩を行い、運動量を増したが、その効果は一向に現れず、HbA1cは上昇の一途であった。

20044に一時帰国した際のHbA1cはついに9.4に達し、検診を担当した医師からも、入院して食生活の指導を受けよとの指示を受ける始末であった。

其の時は、自分で努力するので入院は勘弁して欲しいと断り、予定通りイタリアに戻ることにした。

しかし、これまでの生活を続けていては、結果は目に見えているため、実行可能で、効果が期待できると考え、これまた一大決心し『断酒』を実行することにした。結婚以来、風邪で寝込むようなこと

が無い限り、毎日、飲酒しており、普通の人が一生飲む量は既に飲んだと割り切った次第である。

例えば海外との往復のフライトでは、ただ酒であることをいいことに、機内サービスが始まったら、直ぐに水割りを注文するのが常であったが、その時のイタリアへ戻る便からアルコールは一切口にしなかった。ワインは如何かなどと幾度もキャビンアテンダントに薦められたが、じっと我慢して意思を貫いた。

 しかし断酒の効果も、予想に反して芳しいものではなかった。体重は2ヶ月で58kgから55kg以下まで下がったが、HbA1cは逆に9.5まで上がり効果は全くなかった。4ヵ月後のお盆の一時帰国の際の検診では、体重は4kg減ったものの、HbA1c8.4までしか下がっていなかった。200410月に一時帰国して検診を受ける予定であった。それが出来なくなったため担当医に送ったFaxにも記載したが、タイムラグはあるが、HbA1cも、このまま低下の傾向にあるものと期待していた。しかし断酒8ヶ月後の200412月の帰国時検診ではHbA1c9.5に逆戻りしており、がっかりさせられた。

終戦の翌年に小学校入学、7人兄弟の真ん中と言う育った時の食糧事情に起因していると思われるが、食べ物を残す、つまり腹八部目というコントロールが元来できないことに加え、帰国前のクリスマスパーティ、送別会などで食事面の節制ができていなかったことが効果の無かった原因の一つと考えられる。 

 上記帰国時検診で、HbA1cが下がっていないことから、時間は自由に使えるので、自分として以後をリハビリ期間と位置づけ、血糖値を正常値に戻すことを最優先に生活する決意を固めた。
 また担当医も、インスリンが出にくくなっていることから、従来から投薬を受けている、食事後、糖の吸収をコントロールし、急激に血糖値を上げないための薬に加えて、すい臓の働きを増す(担当医の表現では、すい臓を叩く)一般的な薬であるスターチス錠の投薬を受けた。当初、朝、夕2回であったが、効果がなかなか出ないことから、1年後の20063月からは毎日3回服用することを指示された。
 本人の対処法は、運動と食事に気をつける以外にないわけである。早朝のジョッギングは、毎日10km程度と増したが、HbA1cはなかなか下がらず、20059月にはリバウンドの傾向もあった。
 ジョッギングは食事後に行うと効果が大きいと言われていたが、私の場合、食後、走ると苦痛が伴い、無理であった。参考書を購入して読んだところ、血中の糖分を体内に取り込むには、インスリン以外に、食後30分経過後に運動すればインスリンを使わず取り込めるとあった。
 つまり、毎食後、運動することが必要と考え、エアロバイクを購入し、同月から食後、2030分程度、カロリー量にして250kカロリー程度の運動を加えた。

色々なことが功を奏したものと考えるが、20067月にHbA1cが正常値の5.7までやっと下がった。またその他の数値、つまり食前、食後の血糖値そのもの、血圧、更にアルコールの飲みすぎにより悪化する肝臓機能値:ガンマGTPなどの全ての検査値が正常値に納まるようになった。何とか、このレベルを維持したいと考えている。

はっきりした根拠はないが、経験上、下記のようなことが言えるのではないだろうか:
   1)      生活の乱れ ∙ 不摂生が血糖値を上げる。
   2)      体内の余計な脂肪が、血糖値上昇に拍車をかける。
   3)      食後の運動は、血糖値上昇抑制に効果絶大。
   4)      命あるものは、老化が必然。

終わりに、常に小生のことを考え協力してくれた妻、またご指導いただいた担当医師及び関係者に対し深く感謝の意を表する次第である。

以上

) 血中グリコヘモグロビン濃度:HbA1cとは?

グリコヘモグロビンA1cと呼ばれ、血液中の色素が、どの程度(%)で糖と結合してかを示す値。過去3ヶ月間程度の平均血糖値と相関を有するため、糖尿病の診断マーカとして欠かせない存在になっている。また患者の重症度と正の相関が有ると言われている。

 1974年3月 1979年2月 1984年1月 1988年12月 1993年9月  1998年8月  2006年6月

パスポートに添付した顔写真 (18歳時の体重は48kgであったが、21歳で日工専卒業時、60kgに、35歳の時、既に68kgに達していた。)   現在51kg