イッキ(1期)物語
             茨専 1期 荒木 浩二 

  涼しい夏の今年、石油価格高騰で懐は寒いというこの頃のため、イッキに
 ビールを飲む気にもなりません。
  ともかく、冷や汗ものと思っていますがお読み戴ければと以下に綴ってみます。

 始まりは、義務教育の開始の時からであった。国民学校へ入学した。前年まであった
 小学校がなくなり小国民育成を目的とした学校の一年生、それも日本を離れた
 外国の地でのことだった。
  現地の方の学校は数百人、日本人のそれは百数十人程度。そして、暮れ12月には
 当時の語句で表せば大東亜戦争が始まった。

  家庭の都合で終戦(敗戦)少し前に日本本土にもどり、空襲、勤労奉仕他で
 勉強をしたとの思い出は無い。
  教育勅語の筆書きに苦労したのが妙に頭に残っている。
  戦が終わっても外国から戻った我々に対するイジメは激しさを増し食糧難と
 インフレに追い討ちをかけられた。 教科書は墨塗り、次いでタプロイド版。

そして、学制改革(6・3・3制)である。新制中学一年生として入学。
  上級生にはいろいろとあったようだったが、我々は一ヶ月近く空白後の入学、
 学校一校が全て一年生で約1700人いた。  英語を教科書なしで習い、
 音楽でドレミファ・・・を知る(それまではハニホヘト・・・)。
  しかも一年毎に学区変更と転校があった。

 町中も様子が変わって外国人が目立ち、洋画が上映され外国にいたころに観た無声
 の弁士付洋画を思い出したりしていた。 そのうちに米国情報局の図書館が
 近くにあることを知り、レコード、図書、フイルムを利用させて戴き、それにも増して
 真冬でもシャツ一枚で過ごせる館内は自分にとっては別天地であった。
  困ったのはアルファベットでサインをしなければならなかった事。
  気がつくと現今のパスポートは漢字となっている。


  このころから食糧調達だけではない登山が出来て黒部峡谷から白馬岳を目指し、
 雨で撤退したものの良い思い出となった。


  次は工業系高校で稼ぐ能力を得ようと通ううちに、日本の方言にも慣れてきた
 こともあり部活動に参加した。登山とも、と思ったが入学少し前に肩の骨折
 (よほどのカルシュウム不足)があったので止め、グライダー部とした。
  先輩(戦中の戦闘機、爆撃機の乗務員)の情熱と指導のもとにプライマリーの
 製作を一年半行なったが完成にあと少しで卒業してしまった。が、
       このことは学校としては初めての事だったらしい。

 そして校内面接、工場内ペーパーテスト、工場内面接の後、現在に至るスタート
 きることが出来た。

 ここで、また方言の障害に会うのだが社員の多くが日本各地からなので、
 お互い様となり幾分緊張は和らいだ。入社後3年を過ぎて工場を異動させられた。
  自分の業務の性質上、異動先組織への割込みだったので臨時採用者並みの扱いに
 近いことがあったようである。つまるところ、対等に過ごせる登山とバレーボールが
 心の頼りで残った。

 登山は、入社後は社内の方と行なっていたが、社会人団体が発足したのを機に
 その団体の創立会員として加盟し、登攀(岩と氷)中心で楽しんでいた。
          1期会員である。

 バレーボールは、課対抗で野球と共にやらせれていた、ような感じであったが、
 工場を異動させられた先で部員から声をかけられて実業団としての動きに加わった。

 このような時、日工専の話にぶつかった。当時は「茨専」といった。
  何回かのペーパーテストの後に入学した。何度目かの初物(1期)に当たったと
 いえよう。工場から仕事の問い合わせに半年くらいは対応しながら勤めた。
  課対抗のバレーボールの試合に茨専として参加してもよいとのことで、Cクラスで
 準優勝し賞状を持っていき校長先生に報告した時、勉強は充分なのか、との
          お言葉は今でも忘れない。

 やがて事なく元の工場に戻り、勤める。今でいえばIT化が始められ何かと
 煩雑な基礎作りが大変な時であった。工場の分割もあって工場の山岳部も
 バレーボール部も独立する。これまでに部員が敵となり質と量の再構築。
  そして1年後に従業員2名の山での死亡事故への対応、その数年後だったが
 実業団バレーボールの関東地区予選会に6、9人制の両方で出場、と創立時の
 苦労が報われたような気になった。このころにスポーツ指導上の能力を向上す
 るために、競技団体ごとに資格制度が採用され、自分も資格を取得した。
  これによるものか、文部省登山研修所事業の講師となったりしてより忙しい
 日々が続くことになる。

 やがて不況、工場を異動させられて対象製品も変わる。自分の住所は変えること
 なく単身赴任。製造の海外展開、開発支援を当時に行なった。
  現今は最盛期のよう。山のほうは県組織の委員から中央競技組織の委員、
 その内に県の役員から中央の役員と単身赴任の立場を利用されたように感じた。
  まあ、県と中央の旅費節約もあったのだろう。しかし、この状態が終わっても
 旅費の支給は無かった。いやなら役目を辞退しろ、かもしれない。
  そうこうしている内に国内資格制度が改定となり必要性と立場とがあり
 国内競技共通の資格を山岳として取った。従来の3段階資格とは別で3段階
 最終取得は10年目である。この後に、山岳では資格検定者の資格が新たに
 設けられ初回検定に合格、考えてみると、両方とも初物であった。

 

1期、初物に良いことばかりはない。
 国民学校は闇の中に葬り去られ、指導者資格制度も昨年に改定され
移行措置があった。マスターという称号はつけられたが。

 気がついてみると、自分の名字からいって常に事の最初、または5番目以内で
あった。
 事が出来れば問題ないのだが、この不安と緊張はほかの方には理解されないと
思うし、人の世の常と今は思うしかない。
―――ということで終わります。

 

次回は 茨専 機械1期の「山崎 善弘」さんが執筆してくださります。